都市名:バングラデッシュ
氏名: 今井信行
都市の印象:
独立までの背景が如何ようのものであったのか、詳しくは知らないが、独立以前はパキスタンからの需要、物資の流入などで就労の機会も現在よりは多かったという声も聞いたし、独立して思想的自由を得たゆえ、現状の方が国民は幸せであるという声も聞いた。しかしカルカッタへの難民が続くことからも、現在のバングラデシュが大変な状況であることには違いない。
折り悪く、雨期に訪れた当地は高温多湿の大気が肌にまといつく日々であった。空港のゲートを越えた瞬間から無数の人々が群がっている。皆、着古した一張羅のシャツとズボンを着て、シャツの前をはだけている。雨にいかに降られようともお構いなしである。雨に降られてずぶぬれになっても、次に太陽と体温で乾くまで着続けるようである。褐色の肌と雨にぬかるんだ大地とが溶けあって、モノトーンの景色が広がっている。記憶の中からバングラデッシュの風景を思い出そうとしても、色彩に乏しい。ぬかるんだ褐色の大地の色に塗り込められてしまう。
往来にもバラックのような住居が続く、道路を走るのはリクシャーと呼ばれる自転車の後ろに幌付きの客車がついた乗り物である。この幌を思い思いの色で精一杯の彩色を施している。皆このリクシャーをただこぎ続ける。必ずしも客の乗っている車ばかりではない、むしろ無人の車の方が多いかもしれないが、客を求めてか、ただただ雨の中をこいでいた。ずぶ濡れになるのはまったくお構いなしである。このリクシャーが一台6000タカ、一日30タカの貸し料とのことだ。1タカは日本円で約2円50銭、リクシャーを所有する胴元は約200日で元が取れる。このリクシャーを所有することが一種のステイタスとのこと、精一杯のデコレーションも彼らのステイタスかも知れない。ちなみにホテルのボーイの給料が月給2500タカ、これに比して輸入物のミネラルウオーターは一本500タカ。水が法外に高いことが印象に残っている。
町の超一流ホテルに泊めていただいた。日本資本も経営参加しているようで、マネージャーは日本人のようだ。ホテルの前にならぶ門衛が皆ライフル銃を携帯している。総選挙直後ということもあるのだろうか、緊張した雰囲気でまさに戒厳令下のようで、日本人会の迎えがなければとてもホテルから出られたものではない。
外出の折りにちょうどスコールにであった。たたきつけるような、それでいてなま暖かい雨だった。一日に何度かドカッと降るようだ、雨期には国土の2/3が水に浸かるという、信じられないような話だ。往来に面した家屋は土間もなく、道路から直接家の中に繋がっているような家も多い、浸水のときはどうなるのだろう。池や川も雨期の度に形を変えるという。前述のホテルのボーイは飲料水は井戸から取るという。池の水を飲むとおなかを壊すが井戸なら大丈夫だという。庶民にこんな高額のミネラルウオーターが買えるわけがないから、やむをえないとは思うが、池の水も井戸水もあまり変わらないような気もするのだが。井戸水の状況はカルカッタ以上に砒素の混入が多く、劣悪のようだ。人間はこのような状況でも生きていけるのかと、街の不潔に驚くのではなく、その中でも生き抜く人間の免疫力に驚く次第である。
バングラデッシュの医療事情:
このような中で邦人は400名あまりで、政府関係者や大企業の派遣者が多く、それぞれに充分な検診等を受けてから派遣されてきたり、帰国の際に検診を受けたりしているようであった。当地には大使館に医務官が常駐しており、有事の対応をしている。
現地医療機関としては現地日本人学校(生徒数36名、教員9名)の検診はラーマンメデイカルセンターの日本留学経験のある現地医師にて行われている。
また外科系病院として日本バングラデシュ友好病院が運営されていた。30床程度の病院だが、こざっぱりした病院だった。日本に留学経験のある医師が勤務しているということで、丁度日本人青年が眼瞼にできた化膿物の切開手術を受けて入院されていた。手術設備、消毒設備なども日本の外科系開業医院程度は満たしており、簡単な手術は充分可能と思えたが、輸血を要するような手術は、血液製剤への不安から現地病院では受けない方が無難と思える。
現地人がよく利用するという小児病院も見学させていただいたが、手術室にも平服のまま靴だけ脱いで靴下履きで案内されたり、開け放たれた窓で術衣もつけずに、手袋だけつけて手術をする姿を開け放たれた扉越しに見れば、この病院で手術を受けるのはおすすめできない。この病院でなんと日本人の看護婦さん2名にお会いした。青年海外協力隊の一員として、現地の看護婦さんの指導に当たっているという。20代後半とおぼしき妙齢のそしてふつうの女性に見えた。この土地であたかも日本の病院で働いているかのようなさりげなさで、ときに屈託のない笑顔を交えながら現地の人と話す姿は印象的だった。聞けば地方に入っては現地の人と同じような生活をしながら、公衆衛生の普及などに勤めているという。美甘(みかも)医務官も彼女らの献身的努力に感心しておられた。地方に行ってエイズ予防のためにコンドームを指導しようとしたが、10年先に発病するかも知れないエイズより、明日発病するかも知れないコレラや赤痢のほうが現地の人の関心は高いというような苦労話もお聞きした。
いまひとつ国際下痢センターなるものも見学した。下痢を研究する者にとっては宝庫のようなところだそうである。一日の下痢の来院患者数約400人、月間10,000人の下痢患者の受診があるという。病院内部を見渡しても下痢の患者ばかりがビニールシーツを敷いたベッドにうずくまる、気の遠くなるような光景を眼のあたりにした。インド人医師のDr
アミヌル イスラムの案内で施設を見学した。小柄ながら威厳のある態度であった。WHOの援助を受けて、感染性下痢症の臨床的研究をいろいろと行っているようで、いろいろな臨床治験のプロトコルや学会発表のパネルが展示してあった。これだけの患者数になると、医療経済が無視できないものとなる。70%の患者が抗生剤の処方なしに治療されるようで、栄養も点滴ではなく経口の補液が工夫されていた。
下痢ならば、この病院のTraveller's clinicで外国人の診察が受けられるようだ。 その他医療情報は、前述の美甘医務官が適宜提供されているようであった。
この都市でも日本人は独自のコミュニテイーを作り、互助活動やレクレーションを工夫されていた。特に赴任者の奥様方でつくられた婦人部の活躍が目立った。今回の検診の準備等でもお世話になったが、過酷な環境下での赴任者の家族の健康管理に奥様方も活躍されていることを付記しておきたい。
JICA職員の奥様のおひとりが語られた「バングラデッシュは良いですよ、アフリカはもっと大変。」という一言が印象深い。
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